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2010-05-18 23:06:02| 人氣522| 回應0 | 上一篇 | 下一篇

労働する身体、消費する身体

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私が台湾に来て学んだことのひとつに、「身体の使い方」があると思います。東京を離れるまでの私は、なんだかんだ言っても、「消費する身体」しか持ち合わせていなかったと思います。24時間365日、100パーセント消費者目線で、すべてのことを考え、行動していました。それは会社で仕事をしているときも同じでした。

台湾に来て、さまざまな人と知り合い、博士課程で勉強するうちに、東京で暮らす私を常に不愉快にさせていたのは、都市空間のデザインの問題もありますが、私も知らず知らずのうちに同意していた「常に消費者として思考し、行動する」ことが、私の生活を貧しいものしていたということに気づきました。

たとえば、私のもっとも身近な人「猫パパ」を見ていると、人に対して積極的に働きかけ、労働に対しても有償無償にかかわらず積極的に取り組みます。自分が良いと思うものはすぐに友人や家族、親戚と分有します。私は猫パパから、多くのことを学びました。まだまだ猫パパのようにはなれませんが、私も彼のようになりたいと思っています。

猫パパと暮らすようになってから「労働」(特に無償労働)や「分有」に対する関心が強まりました。そういった観点で郷里の母を見ていると、母も猫パパと同じく、おきている間は常になんらかの労働をしているのです。今までなぜこのことに気づかなかったのだろうと、愕然としました。母とは20年ちょっと一緒に暮らしたことがあったのに、とても大切なことを彼女から学び取れなかったことを深く恥じ入りました。

と、同時に、私が暮らしていた東京では、まるで消費者が生産者より高等な生き物であるかのような誤解がありました。ひょっとしたら私だけこういうふうに思っていたのかしら?たぶんそうじゃないと思います。

東京では、より効率よく、値段と比して価値の高いもの、流行の最先端を行くものを選び取る能力こどが重要でした(少なくとも私の周囲の雰囲気はそうでした)。「手作りのものなんて暇で無能で消費能力のない主婦が好むもの」という雰囲気もありました。高い経済力と、商品を選び取るセンスの良さこそが、周囲の人から認められる重要な要素だったのです。

でも、台湾で暮らしてみて、従来の価値観が絶対ではないことに気づきました。消費のセンスといっても、台湾と日本ではセンスが全く違うし、流行しているものも異なります。だから、東京にいたときのように微妙な差異を見出して、「私たち」と「彼ら」を峻別することは、台湾では全く意味のないことになります。こんなことをしていたら、日常生活に支障をきたします。外国で暮らすにあたって必要な能力は、微妙な差異を見出す能力よりも、センスのまったく異なる人とでもなんらかの共通点を見つけてなんとか折り合いをつけてやっていく能力が必要なのです。

あと、外国で暮らすにあたって、常に「消費者(お客様)」的発想ではやっていけません。だって、自分が今まで日本で享受していたような細やかなサービスは台湾には存在しません。どうしても欲しいもの、空間は自分で作り出すしかないのです。





台長: 雪子
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