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2009-11-06 12:01:59| 人氣365| 回應0 | 上一篇 | 下一篇

筆與劍

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我最近常常想,我所生活的社會真的缺很多醫生嗎?

我倒覺得這裡嚴重缺乏的不是醫生,而是會寫出精采又有深度的故事的作家,以及能夠挑選好故事、好作家的優秀讀者。醫學是了解人的一種方法沒錯,但它並不是唯一正確的方式,精采的小說也是了解人和社會的重要管道。好故事也能夠拯救人。

我們需要好醫生,一樣需要好作家和好讀者。精采的故事會使我們的生活更加豐富、也使我們勇敢地活下去。

為什麼會這麼想,是因為最近讀了Edward W. Said的The Pen and the Sword日文版的關係。雖然Edward W. Said談的表面上主要是美國主流媒體的情形、巴拉斯坦、以色列和美國的關係,但我們閱讀時,可以將美國換成台灣(或日本)、將歐美的阿拉伯專家換成台灣(或日本)的日本(或亞洲)專家來看,很快就會發現,其實我們多面臨的問題都很類似,也一樣很糟糕。

我很希望更多台灣知識份子閱讀這本書(哪一種語言版本都可以),希望有一天有機會跟他們討論Edward W. Said所指出的如下問題。我並不是想要跟人家討論非屬於我們的「他們」的問題,而是要討論「我們」面臨的問題。

Edward W. Said的The Pen and the Sword讀書心得:

読み終えて:

この本はパレスチナ、イスラエルと欧米について語られているのですが、欧米の知識人やアメリカのメディアによるパレスチナに対する描写を読んでいると、めまいがします。これは、日本の中国研究者による中国についての描写や、台湾のメディアや知識人(と自認している人々)の日本に対する描写とそっくりなのです。このことからも、サイードが語っているのは、パレスチナというある特定の地域の問題ではなく、私たち一人一人にとってとても身近な、普遍的な問題だということがわかります。私の言葉よりも、サイードの言葉の方がずっと力があるので、以下は抜粋です。この本にもっと早く出あえていたらよかったのに。

抜粋:
とりわけ不幸なことだと思われるのは、こういうオリエンタリストたちは、アラブ人やイスラムの文化を理解し解釈するのが仕事であり、この文化で飯を食っているというにもかかわらず、実はこの文化に露ほども共感を抱いていないことで、彼らは、敵意を持って、対立者の立場から、この文化を取り扱うのです。(42)

→こういう知識人に、日本でも台湾でも嫌と言うほど会いました。これがまた、本人はなにやら使命感をもっていたり、自分の研究対象を「好き」だと思っていたりするから、余計に反省することができません。私はこの人たちから、「単に好きと言ってもいろいろある」ということを学びました。

彼らにとって、イスラエルとは世俗化された信仰の対象にすぎず、金を送る場所でしかないのです。四方を敵に囲まれて暮らさなければならないというイスラエルの状況は、ユダヤ系アメリカ人に直接ふりかかってくる問題ではない。それだからこそ彼らは、そのようなイスラエルの孤立したあり方を男らしく勇猛な正しい行動であるとし鼓舞し得るのです。(44)

→上野千鶴子が「男らしさ」とは病気であると言っていたけれど、こういう記述を読むとそのとおりだと思います。

第三に指摘されるのは、現在、中東報道に携わっているジャーナリストの多くが、ジャーナリストの名に値しないことです。この人たちは、調査活動をしません。言葉も分からないのです。彼らは、危機が発生するところへ駆けつけます。しかし彼らがカバーするのは、テロリストとか、暴力事件といった、教科書どおりのトピックスだけです。それ以外の事件は、あっさり無視され、興味を欠くものと見なされ、したがって存在しないと言うことになるのです。アラブ世界で何が起こっているかについて、政治的な関心が不在なのです。(47)

なるほどアラブ世界の政治は腐敗し堕落きっており、その点については西洋の専門家たちの批判はもっともなのですが、皮肉なのは、そういう批判をしておきながら、この人たちの誰ひとりとして、そうした現状に対する戦いがアラブ世界の内部で起こっていることを認めたり、それに共感したりすることがないという事実です。(60)

→この段落を読んだとき、思わず「そのとおりだ!」と叫びそうになりました。こういう状況に私も日々直面しており、一部の台湾のインテリは、日本や日本人を批判することが政治的に正しく、かっこ良いことだとおもっていらっしゃるようですが、声高に、扇情的な語彙によって日本を批判する人に限って、日本や日本人について驚くほど無知なのです。ある政治的なテーマについて、日本国内でも様々な議論があることを一切無視して、日本人は一人残らずウヨクの軍国主義者のように描写するのです。しかも最悪なのは、そうすることによって、自分が国内でおいしい思いをしていることにまったく無自覚であるか、無反省なのです。私は、自分の既得利益に無自覚で無反省な人の日本に対する批判はまったく耳を傾けることができません。自己反省的な人同士でなければ、対等な対話というのは成り立たないと思うのです。

最近の文章の中で僕が非難してきなもののひとつは、学問でも政治でも抑圧された側の議論に往々にして見られるような、もし自分たちが先に凱旋の集いに到達したら、他の者たちを見返してやろうというような発想です。これは解放という考えにまったくそぐわないものです。これではまるで、勝利によって与えられる特権のひとつは、他者をみな締め出してしまえることだといわんばかりです。(88)

ネイションの自覚が自己目的化し、エスニックな特性や人種的な特性の強調や、捏造によるところの大きい民族や国民の本質といったmのの追求が、文明や文化や政党の目標になるときには、もはやそれは人間の共同体とは言えず、何か別のものになってしまうのです。(88)

→これも本当にしょっちゅう目撃するものです。中国語が話せるようになってから、嫌と言うほど聞かされたのは、「中国が強国になったら、もう誰も中国をばかにできない。日本なんか・・・」という台詞です。こういうことを言うのは(少なくとも私の前では)男性ばかりでしたが、こういう言葉を聴くたびに、「下品な人だな」と思っていました。軍事力があったり、お金があっても、人々の敬意というのは必ずしも獲得できるものではないと、私は信じています。私は、台湾で、もっと別の意味で「豊か」な友人にたくさん出会いました。私の友人たちの「豊か」な生活を目撃したことは、私に大きな影響を与えました。だからこそ余計に、先のような人物に会うと「下品な人だ」と思ってしまうのです。

ここにある考えは、人間は閉じた容れ物ではなく、異物が中を通り抜けていく楽器なのだということです。人間は旅人であり、景色や音や他人の身体や考えを自分自身に刻印することによって、自分以外のものになることができる。海のようにたくさんのもの受け入れることができ、それによって人間存在に深く食い込んでいる経帷子をほどき、柵を取り払い、ドアを開き、壁を取り払うことができる。それがこの一節の訴えていることです。(89)

巡礼という行為において、国外に移住し、やがて戻って来るということが非常に重要なのです。人はこの両方を行う必要があります帰還と異郷放浪。どちらか一方ではだめなのです。(90)

帝国主義についての経済や政治や歴史の文献は大量に存在しますが、それに共通する大きな欠点のひとつは、文化が帝国の維持のために果たした役割を軽視していることです。(95)

欧米ではイスラムを理解しようという関心はほとんどみられず、それと対話を持とうとする気持ちも感じられません。(124)

→これは、私が10年前に日本の中国研究者に対して感じた違和感とまったく同じです。外大の若い院生でも「僕は政治とかにかかわらないで、心静かに中国語の文法を研究したい」とおっしゃる人がいて、私はのけぞって壁に頭をぶつけそうになりました。言葉を勉強していても、その言葉を使って生活している人々や、その人々と対話することについてはまったく関心がないのです。

まるで無能に描かれたうえに、アラブ人が普通のしゃべり方をする場面もありません。彼らは金切り声で怒鳴り合い、吠えたて、わめく。(126)

→これは台湾における日本人女性の表象だってまったく同じです。アダルトビデオの女優か、ものすごくおばかに聞こえる舌足らずな中国語を話す日本人女性こそが台湾ではもてはやされるのです。もっとも日本におけるアジア人女性像だってひどいものですが。

しかし、あらゆる状況には、どれほど強力に支配されていようと、必ず別の道があるものです。確立されたものや現状ではなく、別の道について考えるように努め、現在の状況が凍結したものだなどと思い込まないようにしなければなりません。(140)

→文化こそがオルターナティブなヴィジョンを与えてくれる、と言う点は本当にそのとおりだなと最近思います。台湾のメディアには、たとえ1秒でも触れることが耐えられないので、自力で、もっと鋭い洞察に基づいた、深い内容のある物語を自力で探さざるを得ません。でも、そういう耐え難い環境にいるからこそ、日本にいたときよりずっと主体的により面白い物語を探そうという気持ちになったのでしょう。そういう意味では、台湾のマスコミにも感謝しなければならないかもしれません。

交渉で擁護されるのは、PLO上層部を形成しつつある階層の利害だけだろうと考えていたのです。つまりブルジョワ階級です。彼らは思想的に合衆国と資本主義に依存しており、パレスチナの社会構造や、ひいてはそれを包括するアラブ世界全体の社会構造の変革に、本気で取り組む気のない人たちです。(161)

→これは、台湾の近年の政治状況を眺めていても、まったく同じことを感じます。それは、私をとても苛立たせますが、そういう政治家や政党が大好きと言う人がこの国の半数を超えるのですから、致し方ないでしょう。

しかし、彼らには切り替えができませんでした。大物の白人をひとり味方につけさえすれば、その男がすべてを解決してくれるという固定観念に縛られていたからです。(166)

→こういう発想は台湾でもよく耳にします。これが日本では個人ではなく、力のある特定の組織になるのだと思います。だから、形態は違っても発想は一緒です。

こうしたことはみな、パレスチナ人が抱くアメリカ人についての型にはまった見方が原因です。アメリカ人がパレスチナ人について抱いている固定観念もひどいものですが、パレスチナ人の側にも同じことが言えるのです。(167)

→こういうことに気づく人が少ないのはなぜかしら、と思います。もっとも、私も外国人になるまでははっきりとは分からなかったのですが。みなさん、私よりずっと頭が良いはずなのに、どうして?と思います。

メディアは大きな力を持っており、CNNの浸透力はすさまじいものがありますが、真の情報を与えるという点ではメディアは無力です。合衆国と一握りの西欧の同盟国が支配するようになっている世界思想システムを、ただ確認するだけの役割にとどまってるのです。(195)

→「テレビを見ないと、新聞を読まないと社会が分からない、現状を理解できない」と私に威張って忠告してくる人に出会うたびに強烈な嫌悪感が私を襲います。それは彼女の信じている現実であって、私の目にはまったく違ったふうに映っているということを、彼女は認めようとしません。それが私を苛立たせます。しかもそういう人に限って、サイードとかファノンとかが大好きで、日本帝国主義を声高に批判する自分に酔っているのです。

僕たちはみな、そういう状況において頼るべき二つの機能を備えていると思います。メディアの大キャンペーンに対処する機能です。ひとつは「記憶」です。彼らが前の日に何を言ったのか覚えておくこと。……二つめは「懐疑」です。(195)

こういう能力を磨いて、あらかじめまとめ上げられ思想的な味付けを施された情報をただ吸収するだけの、受け身の存在になるのを拒絶することです。テレビのメッセージはすべて、一種の加工済み思想パッケージ以外のなにものでもないのですから。(196)

それは、植民地支配下において、支配者が自分たちを見る視線を自分の中に取り込んでしまい、彼らに教わり、彼らに支えてもらわなければ自分達には何をする能力もないと信じてしまうことです。自分たちの社会や価値観に基づく評価は役に立たず、彼らの評価でなければ有効性がないという考えをもってしまうことです。(209)

→これは私の大学院の諸規定を見れば、台湾もまったく同じ状況にあることが一目瞭然です。何もかも、アメリカのように、アメリカで認められなくてはだめなのです。もちろん、これは台湾の大学だけがこうだというわけではありません。私たちの日常生活をちょっと観察するだけでも、わたしたち一人一人がいかに権威に弱くて無批判かすぐにわかるのです。

台長: 雪子
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