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2020-09-21 16:17:10| 人氣374| 回應1 | 上一篇 | 下一篇
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13春のお彼岸

3月14日 

映子さんにお花をあげる

 今日は、けっこうな陽気で、それも春風がそよそよ吹いていたので、良い外出日和だった。でも、青空の下では、何だか少し悲しげな空気が漂っていたような気がした。

 朝、お父さん、お母さん、そして有子ちゃんと私、映子さんにお花をあげに行ってきた。

 映子さん、百瀬家の長女、6年ぐらい前にリンパ癌で、発症してから僅か一年間で亡くなった。当時は21歳で薬剤学部の学生だった。

 昨夜、お母さんが今日の予定を尋ねてくれた。私は何も考えず、「私も一緒に行きます」と言った。

 実は、ここに来た最初の日に、居間の本棚に置いてある写真に気づいたのだ。「コンサートだったかな」、穏やかで真面目にピアノを弾いている少女の横顔の写真だ。そして、入口の壁に掛かっている有子ちゃんが紙粘土で作った素敵な表札には、私の知っている家族4人の名前以外、映子さんの名前も書いてある。また、ベランダのところに置いた盆栽、その茂っている葉っぱの間に挟まれた「映子へ」のプチカードは、昨日も新しいのに変わった。それぞれのことに気づいたが、私は何も聞かず、黙っていた。

 昨夜になって、お母さんは初めて映子さんのことを話してくれた。そうすると、お母さんは娘さんとの昔の思い出が浮かんでくる。お母さんは「大丈夫、もう随分前のことだから」と言ったが、お母さんの大粒の涙を見ていた私は、やはり身につまされ、心の痛みに耐えられなくなった。「お母さん、ごめんね、私のせいでお母さんを泣かせてしまったのね。」と思った。

 ホストファミリーと暮らさなかったら、この一生で日本のお墓参りに行く体験はできなかっただろう。お父さんがお水いっぱい入った手桶と柄杓を持ち、また、お母さんが白い百合の花束を抱いていた。丘沿いに備わったエスカレーターに乗り、一瞬、皆が静まり返っていた。ゆっくり昇っていくと共に、両側にお墓が見えてきた。何時の間にか、映子さんの家に着いた。お父さんがお水をかけ、映子さんの家を洗い清めた。お母さんが花束を供えてから、皆が合掌した。また何分間か、皆が静まり返っていた。私は心のなかで下手な日本語で映子さんに自己紹介した。

 ところが、その後、皆が見物するように、墓地を巡った。(気分転換のためかなと思った)墓石の表にはそれぞれ故人の好きだった言葉の一つが刻んである。ランキングトップとなったのは「ありがとう」という言葉だった。映子さんの好きだった言葉はわずか一文字で「虹」だった。「それは姉ちゃんの好きだったバンドの名前」と有子ちゃんは言った。表に対して、墓石の裏にはその故人の生年と没年が刻んである。お供えはいろいろ、缶ビール1ダースもあれば、おもちゃの飛行機や車もあった。「子どもかな?」と思って、墓石の裏をのぞいてみたら、「やっぱり!」と思った。揺り籠から墓場まで、わずか三年間しかなかった。

 人生は儚い。人間は長く生きていけるものではない。あの世に行った人は、まだこの世にいる家族や親友などが、末永く自分のことを慕ってくれる気持ちを知っているのか。

 映子さんの元彼氏は、今なお、年賀状や葉書で百瀬家のみんなに近況を知らせてくれる。この日の夜、お母さんは届いたばかりの葉書を私に見せた。私は何となく泣きたくなったが、悲しみをこらえて葉書を読んだ。もし私が泣いてしまったら、お母さんも恐らくは涙がこぼれ落ちるだろうと私はそう思ったのだ。

4月15日は映子さんのお誕生日だった。その日、おかげで、初めて日本のシュークリームを美味しく食べた。映子さん、ありがとう。お母さん、ありがとう。

 

台長: Dona
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哈默德
祝幸福安康~~
http://www.hamertw.com
2021-02-16 15:46:38
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